2012年5月5日土曜日

イギリス ストラトフォード・アポン・エイボン〜ハワース


イギリス ストラトフォード・アポン・エイボン〜ハワース

シェイクスピアの生誕地、ストラトフォード・アポン・エイボンを訪れたあと、ブロンテ姉妹の生活したハワースへ。湖水地方への入口、ランカスターで宿泊

この日は、まずバーミンガムからストラトフォード・アポン・エイボンに行き、シェイクスピアの生家などを見物する。そこから北に約240Km走り、ハワースまで行く。ここではブロンテ一家の暮らした家や「嵐が丘」を髣髴とさせる風景を見物する。そのあと、湖水地方の入口となるランカスターまで走り、そこで宿泊する。移動距離の長い1日である。

バーミンガムからストラトフォード・アポン・エイボンまで
バーミンガムからストラトフォード・アポン・エイボンまでは少し南に戻る形になる。昨日のコッツウォルズ地方� �らストラトフォードまでは近いので、本当はストラトフォード周辺に宿が取れればよかったのだろうが、諸事情によりバーミンガム泊となったようだ。
バーミンガムは、ロンドンに次ぎイギリス第二の規模を誇る都市というが、郊外のホテルからすぐに目的地に向かったので街の様子はわからなかった。南に向かって約1時間ほど走ってストラトフォード・アポン・エイボンに到着した。バスの中で添乗員さんから、この長たらしい名前について説明があった。「ストラトフォードという地名は他にもあるので、それらと区別するため、アポン・エイボン(エイボン川ほとりの)をつけます。ちなみに、"フォード(ford)"というのは、川の渡渉点の意味で、昔から交通の要衝となっていたところが多いのです」ということだ。

ストラトフォード・アポン・エイボンからハワースへ
ストラトフォードからハワースまでは、予定では約4時間、240Kmのバスによる移動である。途中はトイレ休憩が一度あるだけで、それ以外はバスに乗り詰めである。この長い区間をどのようなルートで走ったのか、帰国後、自分なりに地図の上でたどってみた。途中で撮った写真の地名などを特定できないので、はっきりしたことは分からないのだが、一応、次のように推定してみた。
ストラトフォード・アポン・エイボンから国道A46号線に入り、コヴェントリーを経て高速M69、続いてM1号線に入る。M1号線をかなり長いこと走って、リーズ付近で一般国道に移り、キースリーに向かう。キースリーからは、田舎の細い道を約6Kmほど南に走って、ようやく� ��指すハワースの村に着く。
かなり長い時間、M1(と思われる)高速道路を走っていたので、このルートで当たらずといえども遠からずと思っている。


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私は、BSフジの「欧州鉄道の旅」という番組が好きでよく見る。たまたま、最近の放送でイギリスの「セトル・カーライル鉄道」をやっていた。この中に我々の通ってきたリーズ(Leeds)やキースリー(Keighley)の町が出てきた。また、ハワース(Haworth)のことについても簡単にふれており、うれしくなってしまった。
リーズは、ロンドンから鉄道で約2時間半の場所にあるターミナル駅で、昔から運河や鉄道、現在では国際空港もある交通の要衝だという。セトル・カーライル鉄道は、この駅からイギリスでも有数の景勝地を通ってカーライルまで通じている鉄道である。この鉄道は、リーズを出て少し走るとキースリーの町を通る。このキースリー駅から小さな鉄道が分岐しており、この鉄道が我々の目指すハワースの町を通っている� ��この鉄道は「キースリー&ワースバレー鉄道」といい、いわゆる保存鉄道で、SLがボランティアによって運営されているという。バスはハワース駅付近の跨線橋を渡り、そこから構内に停車しているSLの姿が見えた。

ハワース。ブロンテ姉妹ゆかりの場所を巡る
ハワースに着いたのは16時頃だった。バスを降りると古い石造りの家並みが続いている。有名なブロンテ姉妹(シャーロット、エミリー、アン)はこの町で育ち、成人してからは小説家としてこの町で活躍した。現在も、町にはブロンテ一家の生活した跡が色濃く残り、それを訪ねるために世界中から多くの観光客がやってくる。
ブロンテ姉妹の父、パトリック・ブロンテは、1820年にハワースに移り住み、この町の聖マイケル・アンド・オールエンジェルス教会に牧師として務めることになった。我々は家並みの中を抜けて、まずこの教会を訪れた。それほど大きな建物ではないが、当時の姿そのままに建っている。教会から少し離れたところに、ブロンテ一家� ��暮らした牧師館が残っている。現在はブロンテ博物館として内部が一般公開されている。私たちは自由行動になった後、この牧師館を見学した。二階建てで、それほど大きな建物ではないが、居間、寝室、子供たちの部屋など当時の姿が再現されている。姉妹の衣類や、父親パトリックの、ぎっしり書き込みのされた聖書などが印象に残っている。

ストラトフォード・アポン・エイボンシェイクスピアの妻、アン・ハサウェイの家
バスは、まずストラトフォードの町の中心からは少し離れた立派な茅葺屋根の家の前に止まった。ここはシェイクスピアの妻、アン・ハサウェイの実家である。シェークスピアは1582年、この場所に住むアン・ハサウェイと結婚した。シェークスピア18歳、アンが26歳のときだった。シェークスピアは、一時期このコテージに住んだという。
この建物には、ハサウェイの子孫が代々住み、19世紀まで実際の農家として使われていた。現在はシェークスピア関連施設として整備され、建物の内部は公開されている。特に茅葺の屋根はすばらしい。

ホーリー・トリニティ教会
アンの実家を見学した後、バスでシェイクスピアの墓のあるホーリー・トリニティ教会へ行った。シェイクスピアはこの教会で洗礼を受け、没後埋葬された。墓は教会の建物内にあるということだったが、ちょうど内部の改装工事中で、その場所を確認することはできなかった。見学をすませたあと、バスで街の中心部に戻り、まずはシェイクスピアの生家付近から見物をはじめる。


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シェイクスピアの生家などストラトフォード・アポン・エイボン中心部散策
バスを降りてから、まずはシェイクスピアの生家に向かう。彼が生まれた当時と同じ家が保存され、内部が一般公開されている。建物の外観や付近の様子をカメラに収め、そのまま町のメイン通りを少し歩いて、エイボン川の畔に出た。ここには大きな遊覧船がいくつも停まっている。
そこから少し先のエイボン川の畔にバンクロフト・ガーデンという公園があり、中央にシェイクスピアの像が建っている。像のまわりにはきれいな花が植えられ、四隅にはハムレットなど彼の作中人物の像が建っている。私たちは、シェイクスピアの像の前で記念写真を撮ってもらった。

ストラトフォード市街の自由散策、シェイクスピアの生家内部見学
バンクロフトガーデンで思い思いに記念撮影した後は、町の中心部の分かりやすい場所で解散し、自由行動となった。私たちは、先ほどとは少し違う道を通って、シェイクスピアの生家に向かう。町のメイン通りには車も結構通るが、この道沿いに背の高いフラワーポットが、まるで並木のように立っているのが印象的だった。さすが花の国イギリス!
シェイクスピアの生家の内部見学はツアーの代金には含まれていないので、見学したい人は自分でお金を払って入館する。町の中にはまだ見所も残っているので、別にここに入らなくてもよいのだが、私たちは、せっかくなので入館した。入館料は11ポンド。見学者はイギリス人(欧米人)が多� ��、要所要所でボランティアの人が説明してくれる。当然英語なので、ほとんど分からないのだが、時々分かる単語などもあって、フウンとうなずいたりする。内部の写真はとれないので、写真はないが、二階のシェイクスピアが生まれた部屋やベッドなどの家具が印象に残っている。
生家の中をゆっくり時間をかけて見学したので、時間があれば行ってみよう思っていたシェイクスピア劇場やナッシュの家&ニュープレイスなどは省略し、再集合場所に向かった。時間には皆集合し、ここから近くのレストランまで歩いて昼食となった。この日のメニューはソーセージだった。イギリスでの食事については、あまり印象に残るものがなかったので、後でまとめて記すことにしよう。

ハワースからランカスターへ
ハワースをバスで出発したのは17:20頃だった。ここから本日の宿泊地ランカスターまでは、約1時間半、80Kmほどである。バスはしばらくの間、一般地方道のような田舎の道を進む。車窓からはヒースの茂る荒野(moor)が続く。いかにもイギリス北部らしい風景といえるのだろう。
やがてバスはちょっとした町に入った。ここに立っていた道路案内板でハワースからここまでの道とこれからランカスターまでの経路が次のように推定できる。 ハワースからここまで田舎の道を通ってやってきたあと、ここから先はA6068を経てM65に入り、その先はM6を通ってランカスターに至る。                                  

バーミンガムのホテル前の道路の様子
バーミンガムは工業都市で、第二次大戦中、街の大部分が空襲により破壊されたが、その後、近代都市に生まれ変わったという。、郊外の道路を見ただけで、なんとなく大都市の片鱗がうかがえる

バーミンガムの「アポロ ホテル」
バーミンガム郊外の比較的こじんまりとしたホテルこの日は他にも団体客があり、お客が多かった

アン・ハサウェイの実家(側面より)
周囲は緑に囲まれ、敷地は広い。結婚するまでの間、シェークスピアは一時このコテージに住んだという


痛み私の心は勝手に私を破滅へ

アン・ハサウェイの実家(正面より)
町の中心からは少し離れた静かな場所に建つ。立派な茅葺屋根が印象的である

ホーリー・トリニティ教会
シェイクスピアはこの教会で1564年に洗礼を受け、1616年に教会の建物内に埋葬された。建物の中に墓誌や胸像などがあるということだが、我々が見学したときは建物の改装工事中で、場所を確認することが出来なかった

生家付近の様子
付近の家並みも中世の雰囲気を損なわないような配慮がされている。中央のレンガ造りの建物はシェイクスピア・グッズのショップで、生家見学の後の出口を兼ねている

シェイクスピアの生家
シェイクスピアは1564年4月23日にこの家の二階の一室で生まれた。父は裕福な皮手袋商人だった。建物は外観、内部とも当時の雰囲気を損なわないよう維持管理され、一般公開されている

フラワーポットの並木道
車の通るメイン通りに背の高いフラワーポットが、まるで並木道のように続いている。これだけ見事に続いているのは今回の旅でも一番といえる

メイン通りの街角にて
中世の建物、きれいなフラワーポットが印象的

M1号線からの車窓風景
高速道路の近くで牛がのどかに草を食べている。背後の町は大きいようだが、何という町か分からない

高速道路M1号線の様子
これがM1号線だという確証はないのだが、車の通行量、道路の風格などから判断して英国随一の幹線道路M1と思われる

原子力発電所らしき施設
高速道路からの風景だが、場所は特定できない。原子力発電所のように見えるが、はっきりしたことは分からない

ハワース駅構内の様子
キースリーから「キースリー&ワースバレー鉄道」という保存鉄道が通っている。SLも走っており、ボランティアによって運営されているという。バス車窓からSLの姿が見えた

キースリー郊外の様子
キースリーはかつては羊毛産業などで栄え、たくさんの工場があったというが、現在は静かな町のようだ

リーズ郊外の様子
リーズは鉄道ターミナル、国際空港もある交通の要衝である。高速道路はリーズの郊外をバイパスする

ブロンテ一家の暮らした牧師館
現在はブロンテ博物館として内部が一般公開されている。当時の家具、調度、衣類などが再現展示されている

教会内部の様子
ここで父親が説教をし、子供たちも耳を傾けたのだろう

聖マイケル・アンド・オールエンジェルス教会
ブロンテ姉妹の父親が牧師を務めていた教会


牧師館からさらに細い道を通って行くと、広い牧場に出る。民家が何軒か建ち、その裏手の丘陵に羊が放牧されている。牧草が途切れるとヒースの茂る斜面となり、それがずっと続いている。エミリー・ブロンテの「嵐が丘」は、このような風景の中から生まれてきたのだ。嵐の日には、このような丘を吹き渡る風がヒューヒューと恐ろしい音を立てていたのだろう。私は「嵐が丘」を読んだことがないのだが、旅行から帰ってしばらくしてから妻が読みはじめた。主人公ヒースクリフという男の愛と復讐の物語で、サスペンス仕立てで、いま読み返してみても大変面白いということだ。

牧場の真中から丘の頂上方向を望む
牧草が途切れるとヒースの茂る斜面となる。エミリー・ブロンテの「嵐が丘」はこのような風景の中から創作された

牧師館近くのの民家と牧場
牧師館を少し行ったところに何軒か民家があり、その裏手には広い牧場が広がっている。牧場の中に遊歩道が設けられ散策することが出来る

牧師館を出たあと、私たちは村のメインストリートを歩いた。通りに「ローズ・アポセカリー」という看板のかかった古い店がある。ガイドブックによると、これは19世紀から続く老舗の薬局で、ブロンテ姉妹の弟ブランウェルの薬を調合していた店だという。メイン通りは次第に下り坂になり、これをどんどん下ってゆくとハワース駅に通じているようだが、時間がないので残念ながら途中で引き返した。私たちが散策したのは17時頃で、観光客の姿はあまり見られず、買い物途中の地元のおばさんや、店の前で植木の手入れをしているおじさんなど普段着の村人の姿が見られた。

花のきれいなレストラン
店の前でおじさんが花の手入れに余念がなかった

ハワースのメイン通り
この道をどんどん下ってゆくとハワースの駅に通じている。夕方でもあり、観光客の姿は少なかった

ローズ・アポセカリーの店
ブロンテ一家が暮らしていた頃から続いている薬局。当時のままの内装だが、現在はみやげ物などを主に販売しているようだ

ランカスター
ランカスターに近づくとバスは高速道路を降り、一般道路に入った。やがて、左側に海が見えてきた。ガイドブックの大きな地図を見ると、ランカスターはアイリッシュ海にほど近い町である。対岸に見える陸地は、湾に突き出した半島だろう。19時頃、海の見えるレストランに着いた。夕食はチキン料理だった。夕食後、またバスに乗り、市街地に向かう。途中、大きな川(ルーン川)を渡ったが、ランカスターは古くはこの川の港町として発展したという。市街地の真中にあるホテルに到着したのは20時半頃だった。明日もこのホテルに連泊なので、気分的には楽である。                                                            

貴重な道路案内板
このような写真が、後から経路を推定するのに大変役に立つ。この場所の地名は分からないが、地図上で位置を推定できる

ヒースの茂る荒野が続く
ハワースからしばらくの間、車窓からはヒースの茂る荒野が続く。イギリス文学などでよく描写される風景だ

ルーン川よりランカスター市街方面を望む
バスでルーン川を渡る。ランカスターはこの川の港町として発展したという古い町である。丘の上にランカスター城が遠望できる


車窓よりアイリッシュ海を望む
対岸の陸地は、湾に突き出た半島だろう。マン島やアイルランドも望めるはずだが、確認できなかった

バンクロフト・ガーデン、シェイクスピア像
エイボン川畔のバンクロフト・ガーデンにシェイクスピアとハムレットなどその作中人物の像が建っている

エイボン川のほとり風景
ストラトフォードの町の中心部を流れている川。大きな遊覧船が幾つも停泊している。町の名前「・・アポン・エイボン」の所以である



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