2012年4月13日金曜日

4.3ニジンスキー | Murmur


――翼を持った者には腕がない、腕がある者には翼がない

銀劇で上演中の荻田版ニジンスキー、観に行ってきました。
冒頭の言葉は山岸涼子「牧神の午後」のワンフレーズですが、元々この漫画でニジンスキーの生涯を知っていた、かつバレエ好きなので興味があったこともあり、本当に楽しみにしていたの。
それに、ニジンスキーを演じるのがあの東山さん。黄金の煙を纏うニジンスキー、無性の美をもつニジンスキー…まさに東山さんのための役、とでも言いたくなるような!憑依、と表現されるその踊りを、東山さんがどんな風に表現するのか、この目でしかと見たかった。
それと、私が東山さんを実際に見たのはアルターが初めてで他の役のことは話に聞いたことしかないけれど、一目見たときから、この人が薔薇の精を踊るところを観たい、と思っていて。もちろんクラシック畑の方でないのは承知の上で、華やかで艶やかに踊るこの人が真紅の薔薇の花びらを纏ったらさぞかし似合うことだろう、と想像していたら、なんと、夢が叶ってしまいました。もちろん薔薇の精のことだけでなく、くらくらするくらいに魅力的な東山さんが踊る、演じるところをもっと観たいと思っていたから、本当に幸せな体験だった。
東山さんの、ニジンスキーを、観られてよかったです。

と、私の話は置いておいて。感想の前に、最初にも少し引用した「牧神の午後」よりもう一節。
「(神は)踊る翼を持ってこの世に舞い来たったニジンスキーに、地上での幸福を紡ぐ腕を与えなかった。その腕を微塵も持たないからこそ、彼の翼は誰よりも純白で壮大だったのだ」
本編の最後に振付師のミハイル・フォーキンの視点から描かれた、まさに、という感じで本当にすとんと落ちてきた言葉です。私がこの漫画でニジンスキーに親しんだおかげで、どうしても思考が「翼と腕」というポイントで展開しがちなので、この一節があるといくらか伝わりやすいかな、と。


誰が家賃にロジャーを果たしている?

さて。どう感想を書いたらいいのか悩むところだけれど、先に全体から、かしら。まず、ダンスアクト、というものに慣れてないので、わかりにくいのかと心していったのですが、全然そんなことは無かった。身体と表情だけで表されるほうが、言葉よりよっぽど多くを伝えてくれることもあるんですね。東山さん、と、ダンサーでは風海さんも、とても雄弁な身体で、表現力と一言で言ってしまえばそれまでなんだけれど、感情が迸るような踊りをされていた。
あと、演出に関して。実際の時系列で言えば、ニジンスキーがペトルーシュカを踊ったのより牧神の午後を振り付けたほうがあとだけれど、それをあえて逆転させたところに虚をつかれたというか、凄く面白かったです。
ただ、私はラストですこし首をかしげてしまった。もっと言ってしまうと、あの構成は私の好みではないのだと思う。一度しか観ていないので、あくまで多分、だけれど。身体が、踊りがあんなにも多くを伝えてくれるのだから、最後に彼が言葉で自らを語るシーンはいらないとさえ思ったの。こちら側の想像に委ねてほしかったような部分を、あんなにも滑らかに喋られては悲しくなってしまいます。ただ、荻田先生が何を考えてニジンスキーをああいう人物として描いたのか、は、演劇ライフさんの稽古場インタビューを読んですんなり納得したのだけれど。
あと、ところどころに使われていたショパンの遺作ワルツ、14番のホ短調が華やかで繊細で哀しくて、この舞台そのものだと思いながら耳を傾けていました。

いや、そんなことは置いておいて。
観おえてまず一番に思ったのは、ほんとうに、みんなみんな、哀れだな、ということ。ヴァッツァも、ヴローニャも、スタニスラフも、ディアギレフも、ロモラも、みんな。そしてきっと、そう思っているのは観ている私たちとフレンケル先生くらいのもので、本人らは微塵もそんなことは思っていないだろう、とも。
その筆頭が、もちろんヴァッツァ。彼はほんとうに凄いひとだけれど、同時にひどく哀れに思えて仕方がありません。彼は、人並み外れた大きな翼はあっても、腕はもたないひと。それなのに結婚という人並みの幸せも求めてしまったから、腕をもたずにはうまくやっていくことのできない人間世界で、彼の精神は摩耗してしまった。ロモラと結婚したことで、人間世界と、そうではない彼だけが知る世界が彼の中に同時に存在することになり(そのどちらにも自分を置かなければならなくなったと言い換えてもいいけれども)その乖離に苦しんだのではないかしら。もしかしたら、ディアギレフに飼われたまま、腕を、つまり人間としての幸福を求めることがなければ、彼は乖離に苦しむこともなかったのかもしれません。


アーティストが自分の音楽を書いたもの

そして「人並みの幸福を求めた」などと自分で書いておいてまったく矛盾したことを言うようだけれど、彼は本当に、誰かに愛されたかったのだろうか。
まず、私はいまだに彼がどうしてロモラと結婚したのかが掴めていないんです。だってどうしても、ヴァッツァとロモラが「鏡」だなんて思えない。あの舞台で描かれるロモラは没落貴族らしいプライドの高さと卑屈な心、そして野心を持っている女性で、それが、ただ親に捨てられた環境が同じ、「からっぽ」なのが同じ、そんなことでヴァッツァと「鏡」だなんて考えたくない、言ってほしくない。もちろん、死後のヴァッツァの言葉からすれば、鏡の振りをしていただけだ、とも取れるけれど。それでもそうしてまで彼女と結婚したかった理由がわからないので、この疑問は消えない。

話を戻します。彼はその生涯を通して、誰かに愛されたかったのか否か、ということ。少なくとも、ディアギレフやロモラに愛されたかった� ��は思えない。漫画「牧神の午後」では母親の愛を求めた、というような描かれ方をしていましたがこの舞台ではそれもなく、つまりヴァッツァは誰に愛されることも望んでいなかったのではないか、と。「ぼくはぼくをあいしてる」「ぼくをあいしてくれるひとをあいしてる」、これらの台詞も自己愛ありきで、他人からの愛を求めたようには思えないんです。
そして、実際に彼は、他人の誰からも愛されていなかった、と私は思う。彼の才能を愛するひと、彼の容姿や名声を愛するひとはいても、彼自身を愛してくれるひとはいなかった。自己愛だけが高じた「孤高のバレエダンサー」はひどくいびつで、その歪みを、私は哀れに感じる。彼にとって「ぼくは神」で、「ぼくはぼくをあいし」ているのだから、「神に愛された孤高のバレエダンサー」というキャッチフレーズは、まさに、なんですね。
ちなみにこれらの台詞は、「私は幸せだ、なぜなら私は愛だから」「私は神を愛する、だから自分で自分に向かって微笑む」「私は神である、私は愛である」というニジンスキーの手記から取られていると思われます。なんて、なんて孤独なひとなんだろう。


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さ、まとまらないニジンスキー語りはひとまず置いて、東山ヴァッツァのこと。
最後、ヴァッツァが滑らかに喋り出してから時々東山さんと重なるように見えたのは、演出家の意図であえて重ねたのか、重なってしまったのか?アルターで観た「東山さんになっちゃった」状態ではなくて、透けてというか重なってというかすこしズレてというか、とにかく東山さんが舞台上に見えました。それこそ、東山さんがこのニジンスキーを演じる意味なんじゃないかと思うわけですが。
そういえば、ニジンスキーは何かが憑依したように踊るひとだと言われていて、東山さんもきっとそれができるひとで、だけれど不思議と憑依という言葉が頭に浮かんだのは、あの薔薇の精のときだけでした。多分、物語が進んでゆくにつれて、もはや憑依なんて次元ではなくなっていったからだと思う。「東山さんのヴァッツァ」ではなく、「ニジンスキー」がそこにいる気がしていたの、神との結婚までは。それ以後の死後の世界ではすっと気が抜けてしまったというか緊張が緩んでしまって、それも私があの構成が好きではない理由なのですが。

東山さん、バレエダンサー四人と同じ振りを踊るところで明らかに見劣りするはずで、して当たり前で、たぶん実際にしているのに、不思議とそれを見劣りだとはまったく感じませ� ��でした。どういうことかうまく言えないけれど、東山さんだからこそ、だと思う。凄いひとだ。
凄いといえば、クラシックではなかったけれど、あの薔薇の精はまさに無性の美、いや両性の美。あの衣装で踊る東山さんを夢見ていたこともあり、感無量でした。あと、贅沢なことを言っているのは承知の上で、せっかくならシェヘラザードの金の奴隷も踊ってほしかったな、と。東山さんが黄金の煙を纏う姿をこの目で観たかったです。東山さんは、それを纏えるひと、立ち上らせることのできるひと。
一幕の最初と最後、二幕の最初、牧神の午後のポーズをとる東山さんは、この世のものではない彫刻のようでした。


スタニスラフのこと。
失礼を承知で正直にいうと、観る前は、泰ちゃんが出てきたら笑ってしまうだろうと思っていたの。でも、もう全然、笑えるはずもありませんでした。だってあれは泰ちゃんではなくて、スタニスラフだった。出てきた瞬間からぞくっとして、何、あの目は、と。
それでも最初は、どうして泰ちゃんが兄なのかな、と不思議に思ったのだけど。スタニスラフの時間は子供のころで止まってしまったから、なんでしょうね。弟や妹より幼く見えることに、意味がある。そしてバレエが踊れないからこそ、あのいびつなジャンプが生きる。彼を演じるのが泰ちゃんでなければいけない理由が観ていてよくわかって、ものすごく納得しました。
「中につまっているのはおがくず」「ヴァッツァ、君は人形の振りをするのが得意だね」どこかこの世ではないところを見つめながらペトルーシュカを語るスタニスラフの姿とあの目が、脳裏に焼き付いて離れません。
狂ってしまったヴァッツァの目が真っ暗なほらあなのように自己へ、内へ深く深く潜ってゆくものだったのとは違って、スタニスラフの狂った目は、同じ真っ暗でも何かを訴えたい、何かが外へ出たい!と狂気が溢れ出している目だったように見えた。ヴァッツァは統合失調症だったようだから、彼が破瓜型だとしたらスタニスラフは緊張型というか、とにかく違った気の狂い方。あの目も、あの叫びも、夢に出てきそうです。

ディアギレフとロモラとヴローニャ、とヴァッツァをとりまく人物たちについて。まず先に、私はロモラと妹の、特にロモラの語りが苦手です。苦手なのと考えるのをやめるのとは別のことなのでもちろんなるべく突き詰めようとしましたが、やっぱり好きではないみたい。
多分、彼女の語りを、いえ語りも含めて彼女のことをどうしても好きになれないのは、言葉の選びかたに品が無いのと、夫のことを話しているようで自分のことばかり、物凄く主観的だから、かな。むろん、彼女というのは荻田版ニジンスキーにおけるロモラのことであって、実在のロモラや、当然あすかさんとも切り離した話ですが。
ヴローニャにも少しそういうふうなところがあるけれど、とにかくああいう形式で進めるのならもっと冷静に、客観的にニジンスキーのことを語ってほしい。あの語りではこちらが不快になるだけで、その不快感、鬱陶しさが狙いなのだとしたら頷けるけれど、それにしても少し疲れてしまう。ロモラを野心家で強い、ぎらぎらした女性として描きたかったのかな、とは想像してみるものの、あんなふうに嫌な女性にする必要はあったのだろうかと首をかしげました。


一方ディアギレフだけれど、美しいものを愛する、ただそれだけを貫く、そこがディアギレフの美しさでした。ヴァッツァに対して、無意識にせよそうでないにせよ翼と腕とを同時に期待したロモラとは違って、ディアギレフは両方をもつものなど存在しないことを知っていた気がします。そして、そんな彼が愛したのはヴァッツァの大きな翼だった。
ディアギレフ自身が、経営の才能という立派な腕をもつかわりに翼をもたなかったひとで、だからこそヴァッツァに惹かれたのでしょう。同時に何人の男性を愛していようと、生涯で最も愛したのが彼であることに、間違いはないはず。だって、彼がもっとも大きな翼をもっていたのだろうから。ヴァッツァ自身を愛したとも、彼の翼だけを愛したとも言えないし、それが愛なのか執着なのかも、危ういところでしょうが。
しかしとにかく、岡さんのディアギレフは本当に美しかった!耽美でした、少年に扮したダンサーたちを撫でる手つきや視線、なんとセクシーなのか。美しいものを愛するのだから、間違いなく自分自身もこよなく愛しているだろうと思われるような、美しいひとだった。何をしていても絵になるとはまさにあのこと!

最後に、ダンサーの風海さん。もともと好きなダンサーさんで、ニジンスキーの若い時代やバレエダンサー部分を風海さんが担ってくれたら、と開幕前に言っていたのだけれど、まさにそれが叶って鳥肌が立ちました。ほんとうに、さすがだった。
しなやかで柳のような踊り、立ち居振る舞いの素敵さなんていうまでもないけれど。今回、とても遠くて息遣いなんて聞こえるはずもなかったのに、指先や爪先まで呼吸がかよっているからか感覚的に息遣いがこちらまで伝わってきて、ため息をつくくらいでした。ディアギレフに触れられた瞬間にふっと身体がほころぶあの感覚や、弾けるような瑞々しさ、羽が生えたかのような跳躍、若きニジンスキーは風海さん以外にありえなかったと思う。

と、実在のニジンスキーたちと舞台上の彼らとが頭の中で入り混じってしまって、自分でも微妙な感想になってしまいましたが。とにかく、重い舞台だったな、というのが正直なところかな。ただ、今まであまり親しんだことがなかったダンスアクト、なんて面白いんだろう!と衝撃で� ��た。大好きなバレエだから心に響いたのかもしれないけれど、もっといろんなものを観て、どんどん世界を広げたい。
それにしても東山さん、アルターやDDで感じたのとはまた180度違った魅力で。彼の引き出しは一体いくつあるのか、無限なのか、もう、凄いひと。こんなものを見せられてしまったら、このひとが出るもの全てに触れたいと思って当然ですね。次のこういう舞台がどんなものになるのか、とっても楽しみです。
ちょっと今日はここで力尽きたので、既にかなり日が経ってますがアフタートークのことはまた後日!本編とは違って和気藹々とした、でも真剣なところは真剣な、素敵なトークショーでしたよ。



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